さん☆おとぴpresents いのちのしくみ

2017年1月にアメブロからお引っ越ししました。過去記事保存用なので、たぶん更新することはないと思います。

☆宝はいまここにある☆

宝はいまここにある 感じるカラダ この想い われいのち

昨日、ふと思いついた言葉 われながら名言です

どんなに外側に宝を求めても 外側を変えようとしても...

信じられないほどのお宝はいまここにあるので

内的に生きる以外にこのほどの充実感は絶対にみつかりません

いのちの奇跡をお伝えするために

書いていた、自叙伝が途中でほったらかしになってしまったので

そろそろまた書き始めるので、そっちに集中しようと思います

今、降り注いでいる内的に向かうためのエネルギーがすごいので

それが辛い方が多いと思います

その前に、いのちのしくみ この世のしくみを

ざっと話していきたいと思います

みんなが神だとか愛だとか光だとか言っている

大いなるひとつ これがいのちです

この世に存在するすべての「いのち」

これはすべて同じ物です

いのちそのものだと、何にも実感がないので

いのちを多面的に知りたくて、

肉体という有限な囲いをもってこの世に表れたのが私達です

多面的に知るために、個性というギフトを与えられています

だから大前提として、人と違うのが当たり前です

同じじゃ多面的に知ることができませんから

自らの多面性を知ること これがいのちの一つの喜びでもあります

そして「いのち」そのもののエネルギーの状態で産まれて来ます

3歳ぐらいまでの子どもや動物は「いのち」そのものです

そして人は愛そのものの状態で生きていては

愛じゃないものを知って、愛を知る体験ができません

そのため 悪の種を産まれる時にギフトとしてもらってきます

この悪の種にあたるのが「有限である肉体」そして

その一部である

「形状記憶合金のように色んな記憶を再生する思考(脳)」です

これがあることによって、肉体、思考が自分のすべてだという誤解をします

それでも幼いうちはエネルギーが分かるので

内的な感覚を保っていますが

大いなるしかけの一部により

3歳前後で 愛そのものの自分を封じ

10歳前後で 社会とかかわりにおける自分を封じます

これは本来、絶対的なものである「いのちそのものである自分」を

捨てる体験なので、ものすごい恐怖と痛みを伴って封じています

なんで封じるかというと

封じられた状態で生きている大人を通して

この感覚をもったままでは生きられないということを察するからです

本来の感覚で生きていると、すべてが嘘のようにみえるし

大人たちも内的な感覚がボロボロなので、

いのちを生きていない、ゾンビのように見えるようです

(私も実際、多くの人がそう感じます)

それに耐えられず封じます

まれに私のように、その時に封じきれておらず

いのちそのものの状態を忘れていない人がいますが

そういう人はものすごい痛みを感じながら生きて来ているので

それが反映されて、人生もものすごく苦しいものになりがちなようです

うまくこの世の書式にはまっている多く人は

その時に完全に封じている人だと思います

そうやって人はいのちそのものである自分を封じ

自分でないものになって行きます

前時代までは、

神であり、いのちそのものである自分を忘れるステージだったので

それでも何とかやってこれたのですが、時代は完全に変わり

神であり、いのちそのものである自分を思い出すステージに入りました

いのちそのものである自分にいつか戻れるように

この肉体にはある仕掛けがあります

私たちの身体の中心にある、いのちの光が

身体を通って外側の世界に届き

自分の身体のエネルギーの状態すべてを

世界というスクリーンに映し出します

多くの人が誤解していますし、私も前はそうでしたが

カルマというのは、外側の出来事に対して発生するものではなくて

自分の身体に溜まった色んなエネルギーのことです

そのカルマのエネルギーが

自分の世界に投影されることによってさまざまな出来事が起こります

恐怖を強く溜めこんでいる人は

色んな出来事に恐怖を感じるでしょう

この恐怖の記憶が解消されていれば、どんな出来事があっても

恐怖を感じませんし、恐怖の体験も起きません

怒りを封じて溜めこんでいる人は怒る人がやたらと周りにいたり

どうしようもなく腹が立つことが起こりやすかったりします

だから自分の世界を変えるためには

自分自身を知り、

自分がどんなエネルギーを溜めこんでいるか知ることが大切なんです

感情自体に良い悪いはないので

どんな感情もありのままを体験すれば

それは人生の経験という宝として昇華されていきます

それを感謝しなければならいとか

人に優しくしなければいけないという、教え込まれた思い込みのために

本来の自分の感情を隠して感じ辛くしているために

その感情に気付くため色んな出来事がおこります

一方で人は落差のなかにいるので

自分を知るために自分でないものを強く経験して

自分からずれれば、ずれるほど

本来の自分に戻れた時の喜びが大きいので

思いっきり自分からずれている人は、それだけ戻る喜びがあるということです

いのちには本来の自分を生きたい

ギフトとして与えられた、本来の自分の個性を生きたいという本能的な欲求があります

なのでいったん、自分からずれながらも

自分に戻ろうとして、色々な出来事を自分の世界に起こします

でも本来の自分からずれることも

落差を知るという上においては喜びなので

形状記憶合金のように思考が働き、身体の声を無視させようとします

本来、頭は記憶を整理するためのコンピュータでしかないので

問題解決能力は全くありません

覚えた記憶のプログラムを再生し続けるだけです

でも身体はいつでも正確に自分自身が発しているエネルギーを

表現し続けて本来の自分に戻ろうとし続けます

この二つの拮抗するプログラム

私たちの身体でいつも起こっている、いのちのしくみの一部です

セックスが怖い、出産が怖い、などの相談を受けることがありますが

それらは「いのち」そのものの内的な体験の要素が強いので

この封じられた「いのち」そのものの記憶に触れるからです

そういう方は共通して、生きることへの強い恐怖があるのと

「いのち」そのもの状態では当たり前にすべてが繋がっているので

それを絶たれたことの恐怖の記憶から

人と深く繋がることを潜在的に恐れているようです