さん☆おとぴpresents いのちのしくみ

2017年1月にアメブロからお引っ越ししました。過去記事保存用なので、たぶん更新することはないと思います。

☆否定感と肯定感~人の世のマジック~☆

いやー、このはなし書くの、恐いわー

書こうとするとカラダがフリーズするから

何度か、お昼寝したらだいぶ抜けて来た

前にも寝起きとか、寝しなとかは

自分解きがやりやすいって書いたけど

起きていると、自分の思考の癖にひっかかりやすいんだけど

寝ぼけていると、あんまり頭が働かないからか

素直な感覚に気付けたりするの

あー、区別がつかない人もいるかもしれないから

一応、書いておくと

わたし基本的に、頭を使わないで感覚で生きているんだけど

所々で、長年の癖みたいなのが無意識にでてくるの

たとえば、古い時代の母性の否定癖について書いたけど

わたしもその感覚を受け継いでいるから

所々で、否定感が浮上するの

そうすると、その否定感を打ち消したいから

自分を肯定しようとあれこれ癖を回すのよ

なんでか自分でもよく分からなかったんだけど

調子がいい時は気にならなのに

ここ1カ月ぐらいは

やたらとブログのアクセス数が気になってチェックしてたの

あれも、無意識に自分を肯定しようとしてたんだって気付いた

1月の平均アクセスが5000位以内に入りたいと思って

実際に4200位ぐらいだったかなー

(追記:ちゃんと見直したら、4369位だった

みんなが大好きなミロクだわー)

達成できて嬉しいかっていわれると微妙でね

2年ぐらい前にブログのアクセス数が増えた時にも

5000位以内に入ったことがあったんだけど

なんか、そういうのを気にしだすと

なんのために書いているか分からなくなるのよ

わたしは、いのちを生きる大切さを伝えたいのね

別にアクセス数が多かろうが、少なかろうか

その時に必要な人には必ず届いているはずだから

アクセス数だけで判断するのって

何か大切なものを見失いそうで嫌だったの

ブログ開ければ順位が目につくから

全く気にしてないといえば嘘になるけど

とにかくアクセス数よりも自分が納得できる感覚で発信すること

それにフォーカスしたかったの

12月頃から

別にアクセス数目的じゃなくて

書きたいものを書いていたら

アップ数が多くなってから、必然的にアクセス数が増えたのあって

なんだか、この1カ月ぐらい、朝イチで

アクセス数をチェックしている自分がいたんだけど

そんな自分をどこかで

なんでなんだろうって不思議に思っていた自分もいたのね

ブログを書いている最中は

とにかく自分の感覚とのフィット感に集中しているから

他のことは気にもしてないんだけど

書き終わった途端に不安になって来てね

こんなことを書いて批判されるんじゃないかなとか

否定されるんじゃないかとか

わたしすごくおかしいことを言ってるんじゃないかとか

自分の中から、すごく湧き出てくるようになったの

たぶん古い時代の女性性についてフォーカスしだした

辺りから特に気になりだしたかも

実際は、人から否定なんかされることなくなったのよ

わたしにあれこれいう人って

ダーリンぐらいだよね

ダーリンに言われることに関しては

夫婦って自分の中の深いものをみせてくれるんだなーって

つくづく思うから、後から振り返ればありがたいの

わたしが話していることって

人によっては閉ざした自分の痛みに触れるから

すごく嫌悪感をもつ人もいるだろうと思うけど

そういう人は直接、何かいってこない人がほとんだだよね

言ってくるとしたら、

わたしにとって大切な何かが隠れているから

むしろビックチャンスと思うぐらい、ありがたいのね

最後に否定的なコメント付いたのなんて

いつだろうって、すぐには思い出せないぐらいだし

仮に、否定的なコメントがついたとしても

それが見当違いであれば、言い返せるし

自分を正すきっかけになるから

別に否定コメントつくのは嫌じゃないのに

なぜか、ブログを書き終わって

アップした後って、不安でたまらなくなることが

ここ最近、何度かあったの

なんか、その否定感って

みぞおちとか胃の辺りから、ぶわーーーって

湧き出てくるような感じでね

それを感じると不安で不安でたまらないのね

さっき、それを感じてたら

シンクの汚れが気になりだして

しこたま磨き始めたの

なんかすごくその感覚が汚らしく感じるっていうか

汚れている感じがして

それがシンクの汚れとリンクしたのか

いてもたってもいられなくて磨いたんだけど

掃除が苦手なわたしとしては

珍しい発作なんだけど

もしかしたら、この汚れを感じたくなくて

掃除もしたくなかったのかもって思った

いやー、たぶん旧世代の女性たちも

不安でたまんないんだと思うよ

やたらと物を溜め込むのが好きな人も多いし

人にやたらとおせっかいなぐらい

世話を焼いたりするけど

底にある不安を感じないように

あれこれ動いて、人のために働いて

自分の生きがいにしたり

少しでも否定感を埋めようとするんだと思うの

でも、そういう否定感から来る行動って

相手を感じての行動じゃないから

相手には迷惑なことも多いし

相手にも否定感が伝わるから

受けても違和感を感じるだろうと思う

なんか分かって来たんだけど

旧世代の人って

たとえばお腹一杯でも食べさせるじゃないの

あと、やたらと物をあげたがったりとか

いりませんって断っても

遠慮なさらずにって勧めてきたり

あーいうのも

きっと相手に否定された感じがして

その否定感を受け取れないから

自分の中で、変に変換して

断れたのに、それを遠慮だと思い込んだりするんだろうなー

別に、食べものをいらないっていっても

相手を否定したわけじゃないんだけど

きっと旧世代の女性の中にある否定感って

ものすごく強いから、それを感じないためには

自分がこうだと思い込んだことをするしかなかったんだね

そういう変な変換システムがあるからなのか

全く否定してない時に、馬鹿にされたとか侮辱されたって

怒る人もいるしね

自分の中で否定感が強いから

人も否定するし、人を信じてないから疑ってかかってくるし

とにかく苦しい生き方なんだけど

それが外ではなくて、自分のうちにあるものって

気付ければ、良かったんだけど

世代的に、それが難しいかったのね

とにかく不安だから

自分の感覚から目をそらし続けて

どんどん悪循環にはまっているんだと思うの

そしてその不安感や否定感を深く隠したまま

女性が子育てをしても

その否定感や不安感が子どもに連鎖するの

その痛みの連鎖の結果

自分自身もちゃんと感じてあげられないし

相手のことも感じられないようになったんだと思うの

なんか上に書いたように食べ物を断られて、

それを遠慮だと変に変換するような

無理やり、自分を肯定するような方法をとったり

前に相手を見下すことは

自分の世界を守ろうとする防御本能だって書いたけど

否定感があるから、それを肯定するためには

誰かを否定しないといけないから

とっさに衝動的に相手を見下すんだと思うの

結果、マンティング合戦をしてみたり

あと人も自分も信頼していないから

自分だけは助かろうとして

人を蹴落としてでも、自分がのし上がろうとしたり

それで

それはそれは、おぞましい人の世ができあがったんだと思う

だけど、本当は否定感も肯定感も

人の世のマジックで

どちらもいらないんだなーって最近は思う

こういう感覚があるから

無意識にそういう癖をまわしていただけで

実際は別に自分を肯定するまでもなく

あたりまえに自分を生きていれば

それだけでいいんだなって思う

だから、いまの時代に必要なのは

とにかく自分自身の否定感をまわす癖に気付いてあげること

ちょっと根っこが深い癖だから

すぐには変わらないかもしれないけど

誰かを否定したい時、自分を否定した時に気付いてあげる

前時代はみんながそういう癖を無意識に回していたから

自分自身も否定したし

互いに否定しあっていたけど

もうそれをやめれる時代になったから

その癖に気付ける人から、もうその癖をやめよう

そして自分も誰も否定することなく

互いに認め合い、尊重し合って、互いに活かし合える

そんな時代にしていきたいと、

わたしはそう心から思うんだ