さん☆おとぴpresents いのちのしくみ

2017年1月にアメブロからお引っ越ししました。過去記事保存用なので、たぶん更新することはないと思います。

生きることへの強い否定感とタタリ神のはなし

すごくカラダが軽い

 

 

びっくりするぐらいカラダが軽い

 

 

でもねー

カラダの中から聞こえてくる声は

 

 

もう生きるの辛いー

 

とか

 

人類、滅びればいいのにーとかなんです

 

 

それに飲まれて、どんよりする時もあるけれども

ウキウキるんるんなこともあるし

とにかく変化が激しいです

 

 

でも、カラダはとにかく軽いし

日に日に、どんどん軽くなって行く

 

 

解放がすごすぎて追いつけないぐらい

カラダがあちこち反応するので

それに集中していると解けて行く

 

 

していることといったら、ただ何にも考えずに

その感覚に集中しているだけです

それだけでも、十分なぐらい

 

 

ただ思考が忙しい人は頭を鎮めて集中するのが

難しいでしょうから、そういう人は

違和感がある所を毛づくろいするような感じで

ぽのりながらなでてあげるといいですよ

違和感が無ければ、全身を手ぐしで解かすように

犬猫でも触るような気持ちで優しく、

ゆったりとした気持ちでなでてあげるといいと思います

とにかくカラダに優しい気持ちで触ってあげるだけでも

違うと思いますよ

(ぽのる=ホ・オポノポノの4つの言葉、

ごめんなさい、許して下ださい、ありがとう、愛しているを繰り返しいう)

 

 

なんでそんなに軽いのに

聞こえてくる声は、生きることへ否定的なのかというと

だいぶ、見切れて来たんですが

 

 

これ↓

映画 もののけ姫より

 

 

このタタリ神は根本的になんなのかっていうと

 

 

たぶん

生きることへの強い否定感

 

 

が根っこなんだと思うんです

 

 

それを根っこに、恨みとか飢餓感とか嫉妬とか

色んなおどろおどろしい感覚が

ぐっちゃぐっちゃになっている感じ

 

 

でもね、

自分という存在は生きることで証明される所があるので

生きることを否定すると言うことは

強い強い自己否定にも繋がると思うんです

 

 

だからタタリ神は強い自己否定の象徴でもあると思うんです

 

 

 

だけど、同時に人は生きる欲求もあってね

 

 

そういう内在的な強い矛盾から来る

葛藤を人は強く持っているんだと思います

 

 

わたしはそんなに詳しくないけど

心理学ではフロイトとかがいっているし

エヴァでもでてくるんだけど

 

 

リビドー、生きる本能的な欲求

 

デストルド 死への欲求

 

 

この二つの矛盾にさらされているんだと思います

 

 

ここからは心理学的な知識じゃなくて

わたし個人の見解なんだけど

 

いのちって元はひとつだけど

肉体を持って生きることで個としての分離が経験できる

 

 

だから生きることだけだと

全体から分離され個人という感覚が強まるので

人との結びつきが欲しくなるだと思います

 

だから強い淋しさを生むし

人から認めてもらいたくなるんじゃないかな

 

 

それで、デストルドって、

死への欲求って表現されることが多いけど

もっと掘り下げて行くと、

たぶん全体性への回帰欲求みたいなものだと思うのね

 

 

すべてはひとつであるという

ワンネスの状態へ戻りたいという欲求

 

 

本来であれば、

このふたつがきちんとバランス良く成り立っているのが

本来の人なんだと思うの

 

 

それがあれば、

わたしはすべてであり

すべてはわたしであるという感覚がありながら

個として存在できるから

 

 

自分が全体の一部であるってことが

理解できるから、誰かと争うこと、嫉妬すること

罵ること、蹴落とすこと、我先に目立とうとしたりすることが

無意味だって分かる

 

 

だって、わたしとあなたは同じものなのに

相手を罵ることも、蹴落とすことも

自分を蹴落とすことと同じことだもの

 

 

別にあえて目立とうとしなくても

全体の流れによって

目立つ必要がある人は目立つ

そういった流れが分かるので、

そこに嫉妬が無用である

そういったことも理解できると思うの

 

 

前も言ったけど

こういう根本的なことが理解できていないから

ありのままに生きると言うことが

自分勝手に生きていいと言う誤解を生むのね

 

 

そうではない、わたしは全体の一部であるから

大いなる流れの中で、自らを生きること

それがありのままに生きること

 

 

自らを生きることというのは

本来の自分の感覚を生きることでもあるんだけど

そうすれば、自然と全体の中の自分の役割を生きることになるから

自分を生きることが、すべてのためにもなる

 

 

だから、そういったことを分からずに

自分勝手に生きることは

全体の流れに逆らうことにも繋がる

ただ、あまりに固定概念でガチガチの時は

多少、はめを外して生きるのも

ひとつの経過として必要なこともあるけどね

 

 

 

それでね、前時代は分離の時代だったから

このふたつの、生きる欲求、死への欲求が

分離して存在していたから全体性が失われていたの

 

 

その二つを統合する必要があるのね

 

 

それで、その二つの分離感を強めていたのって

 

この感覚なんだと思うの

 

 

デストルドは全体性への回帰欲求だと書いたけど

別に欲求なんかもたなくても

感覚として、本来、人は完璧に産まれてくるの

自分が全体の中に一部であるっていうのが

当たり前に認識できていると思うの

 

 

だけど、タタリ神的な感覚によってその感覚を断たれるんだと思う

 

 

古い女性性と似た感じもあるんだけど

タタリ神のほうがもっと深い感覚に隠れている感じ

 

 

エネルギーって基本的に引き合うものがないと

引っかからないんだけど

たぶん前時代の人はこういう感覚を生まれながらに

持って生まれて来たんじゃないかなと推測しているの

だから古い女性性の感覚に飲まれやすかったんじゃないかと思う

 

 

たぶん子宮にこういう感覚が根付いている感じがする

 

 

前に癒された子宮のはなしを何度かしたけど

いまとなっては、全然、分かってなかったけど

たぶんこのタタリ神が癒えた子宮のことなんじゃないかって思う

 

 

人として完璧に産まれてくる

でも産まれながらにして、タタリ神の感覚を持ってくる

これも矛盾しているけど、どっちも本当な気がするの

 

 

前時代って矛盾の時代って感じがするし

 

 

タタリ神は、色んな呪いを集めて

あんなおどろおどろしい姿になったけど

本来は神なんだと思うの

 

 

色んな呪いって

支配、依存、執着、嫉妬、色んな欲望とかそういうのね

 

 

すべてがひとつであるという感覚が断たれたことにより

人と自分を比較するようになったり

人を支配しようとか依存しようとかしたんだと思うのね

 

 

タタリ神はそういう人の色んな感覚を餌に増殖していた感じ

 

 

 

だけど、時代が変わったから

ここに来てタタリ神の解放ができる時代になったの

 

 

前にも書いたけど、

ほとんどの人はこのタタリ神が気持ち悪過ぎて

この感覚を見ない様にしてきたし

実際に観れたとしても解放するのって至難の技だったんだけど

たぶん、そろそろイケる気がするわ

 

 

古い時代の女性性も崩壊してきているし

それぞれに残ったそういった感覚は暴走しているけど

全体的には終息に向かっていると思うの

 

 

これも前に書いたけど

人って色んな欲望を持つことで自分の感覚を感じない様に逸らすのね

 

 

人は問題が好きっていうか

特に旧世代なんて、解決する気がないだろうって思うぐらい

同じ問題をずっとぐるぐる持ち続けているけど

それも、自分を見ないために得た癖みたいなものなのね

 

 

もっといえば、母親の呪縛だって

自分を見ない様にする癖のひとつだと思うの

 

 

ただ、タタリ神の感覚は母親から伝わることが多いから

そういう意味では母親の呪縛は確かに存在しているけど

多くは、自分から逸らすために

人類が作り出した魔法にかかっているような感じよね

 

 

 

これからタタリ神を鎮めて行かないといけないのね

 

 

それでね、わたしが思うに

インディゴたちがとにかくこの感覚を吸収してくれたと思うの

 

 

エネルギーって誰かが解放すると

その解放された感覚がエネルギーで伝わるから

他の人も解放しやすくなる

だから解放するためには、一度、取り込む方法があるのね

 

 

しかもインディゴって二重構造になっている感じがあってね

本来の自分の感覚を

自分の内側の深い所でまるで蝋で塗り固めたみたいに

守っている感じがあってね

タタリ神とか人の世の感覚に染まっているように見せているけど

実はそれは表面的であって、深くまでは染まらない様にしている感じがあるの

 

 

いままでは恐すぎて、タタリ神と対峙するなんて難しかったけど

すごく気食悪いけど、それを超えられるような

気高さを、インディゴたちは持っているから

ぜひ、タタリ神にのまれずに、

内側に自分の気高さをしっかりとつかまえて欲しい

 

 

 

そうそう話しは変わるけどね

わたし、映画もののけ姫を観て思ったの

 

 

昔は、サンがすごくカッコ良くて憧れたんだけど

いまとなっては、憧れる要素が分からなくなったの

 

 

最初にもののけ姫を観たのって

20代前半で、人の世に飲まれるのが怖くて

硬くなに張って行こうとしていた時期だったんだと思う

 

 

だから人を敵対して強く生きるサンに憧れたのかなって思う

 

 

いまとなっては

もののけ姫を見ていて

旧世代的な頑なさのぶつかり合いを感じるの

あくまでわたしの個人的な見解だけどね

 

 

色んな憎しみとかそういったものが

根底でぶつかりあっている感じ

 

 

作品としてはとても面白いけど

あの頑なさでは、また必ず争いが生じる

あのままではいずれ、いのちが滅んでしまう

 

 

だから、本当の意味で、人が生き合える世界を創るためには

頑なに張るのではなくて

柔軟に受け容れて行くことが必要なんだと思うの

 

 

争うこと、すべていけないわけではないのね

互いの意見を出し合ってフェアな戦いだってあると思うの

 

 

でも、映画みたいな

自分の中の正しさであったり、憎しみを握りしめて闘っても

誰も幸せになれないのよ

 

 

もののけ姫だって、ハッピーエンドとはいいがたいような

感じだったしね

 

 

悪者が負けて、はい、終わりじゃなくてさ

もっと人が柔らかく優しく生きれたら

敵なんかどこにも存在しなくなるよ

 

 

だからさー

とりあえずタタリ神の恐怖を解放できれば

すごく楽になるだろうし、

頑なさや思考のかたよりも自然と和らぐと思うよ

それは何よりも自分のためになるの

よくいうけど、本当の意味で自分のためにすることは

必ずすべての人のためになるのよ

 

 

そしてそういう楽な状態になれば

たとえタタリ神のようなエネルギーに遭遇しても

ひっからない自分になれると思うんだ

 

 

タタリ神に取り込まれた、前時代的な人たちは

本当は怖くて我を失っているから

柔らかくて優しい人がそばにいてくれれば安心できると思うの

 

 

インディゴたちはその苦しみを自らの取り込んで来たから

痛いほどその苦しみが分かると思う

苦しんでいる人同士で争っても仕方ないしね

それぞれの人が自分の苦しみを分かることが一番だよね

 

 

そうすると、タタリ神もまた解放されていくだろうし

そういう優しい世界が来ることをわたしは強く望んでいます

 

 

 

 

 

 

 

 

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