さん☆おとぴpresents いのちのしくみ

2017年1月にアメブロからお引っ越ししました。過去記事保存用なので、たぶん更新することはないと思います。

「すべては必然」ということと「自由意思」

すべては必然、

すべては仕組まれており大いなるしくみの元で動いている。

このブログでも何度もそのことをお伝えしました。 

でも同時に人生を想像していく、

それぞれの人の自由意思がある。

ともお伝えしてきました。 

これだけ聞くと、すべては決まっているなら

自由意思なんてある訳がないじゃない。

という矛盾を感じます。 

でも、両方とも本当にその通りのことで、

私の人生、信じられないようなことがたくさんありましたし、

すべてのことは決まっていたとしか思えないような

出来事もたくさんありつつ、

いつも自由意思で決めても来ました。  

私は自分にいつも正直でありたいと願って生きて来ました。

それでも人に良いと勧められた物を買って

後から後悔したり、色々な想いを経験して来ました。

洋服にしても安いからとかバーゲンだとか

色んな理由で買ってしまいますが、

結局、着るのは高かろうが安かろうが

自分が気に入った物ばかりです。 

人生もそれに似ていて、人に合わせてばかりいたり、

人の意見を聞いてばかりだと心地よくないと思うんです。

でもすべては経験なので、

人に合わせて好みじゃない物を選んで

嫌な想いをして、自分の好きな物を知るって

経験も大切なんですね。

それに人は自分のことを

勘違いしていることも多いので、

自分が好きだと思っていたものじゃなくて、

人から勧められた物のが似合っていることもあります。

そうやって色々と試してみて、自分を知って行くのも

人生の面白さだと思います。 

例えば、自分の好みの服が似合っていたAという体験。

似合わなくて人から笑われたBという体験。

人に勧められて買った服が評判が良かったCという体験。

人から勧められた服が似合おうが似合うまいが、

気に行ってないから論外だというDという体験。

どれが正解という訳ではなくて、

それぞれ自分を知るという意味では必要な経験ですし

間違うことこそ自分を知るチャンスであるともいえます。 

ただ選んでももらった服が似合わなかった時に、

人に選んでもらったから、

その人のセンスが悪いからと人のせいにできる。

そうではなくて最終的に選んだのは自分だということ。

自分で選ぼうが、人に選んでもらったとしても

最終的に選んだのは自分だという自覚を持つことが大切です。

そうやっていつも自分には選ぶ権利があります。

誰かまかせの他力本願の人生ではなくて、

自分で選び、その選んだことに責任をもって、

例え間違っていても、間違ったことを悔やむのではなくて、

その経験を生かせる人になる。

人生の醍醐味はそこにあって、

失敗があるから、成功した時の喜びあるんです。

だから失敗も必要な経験なので、

失敗を恐れずに

両方経験できたことを喜べる人である。

そんな人生が素敵だと思います。  

そして、もう一つの大きな自由意思は

それぞれの出来事に対して、どのような受け取り方をするか

どのような感情を抱くのも、それぞれの自由です

同じ嫌な出来事でも、それを不幸ととるか

幸運の鍵ととるかで意味が全く違います

そうやって人は出来事に対して、どう受け取り

それを今後、どう活かしていくかという

自由意思を持っています。

でも、そうやって選べるのは分かるけど、

どうしてその選んだ結果が

まるで必然のようにいわれるんだろう?

そう思いますよね。 

答えは簡単です。それを操作している

大いなる世界は3次元じゃないからです。 

ある側面からいえば、

Aを選ぼうが、Bを選ぼうが、

それぞれの人生が用意されていますし、

必要なことは、どちらを選ぼうともポイントポイントで起こってくると思いますし、

そこから先も選択ごとに無限大に人生が広がって行きます。 

また別の側面から説明すれば、

時間軸における過去も今も未来もすべて俯瞰した状態で、

あちらの世界からは見えるので、

過去と今と未来の共同作業で

無限にパターンを広げられると思います。

だから自由意思がありながら、

この世はすべて必然なんです。

ただ人はその瞬間、瞬間でどう在るか、

何を選ぶかを示していく。

人に選んでもらった人生を送るのか、

自分で選んだ人生を切り開いていくのか、

その選択ひとつひとつにそうした意思が表れ、

それに見合った人生が繰り広げられていきます。

だからこの世は完璧なんです。  

よくスピの世界ではお告げのように、

○○に呼ばれたといってあちこちに行かれる方が

いらっしゃいますが、

それに関してもその人の選択で

行きたければ行けばいいし、

生きたくなければ行かなくていいと思います。

本当にその場に行くことが必要であれば、

その人が行かなければ誰かが行くでしょうし、

自分がそこに行くのが楽しければ行けばいいと思います。

それをお告げだからと無理して行くのは

自分主体の人生でなくなると思います。 

神様はお告げに従わなくても罰を当てたりしません。

罰をあてるのはそう思う人の心です。

それに今まで3次元マジックにより、

人は自分自身を生きて来れませんでした。

その連鎖を断ち切り、自分自身を生きることは

どんな神事よりもどんな先祖供養よりも素晴らしいことです。

なぜならば自分自身を生きれる時、

人は自分の世界すべてを動かす神になれるからです。